鎌倉時代

鎌倉時代の始まり

源頼朝の像
源頼朝の像。最近では束帯姿の絵は別人説が唱えられています。

源平合戦の最中、源頼朝は挙兵します。頼朝は鎌倉を拠点に東国で勢力を伸ばしました。

その後、平氏が滅亡すると対立するようになった弟の義経追討を名目に守護・地頭を設置しました。

こうして平氏、義経、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は1192年、征夷大将軍に任命されました。
ここから、1333年の幕府滅亡までを鎌倉時代と呼びます。

北条氏の台頭と承久の乱

頼朝の死後、頼朝の息子(頼家・実朝)が将軍となります。
しかし、実権を握っていたのは北条氏でした。北条氏は執権として鎌倉幕府内で勢力を伸ばしていきます。

この状況を面白く思っていなかったのが朝廷の後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は当初、3代将軍実朝と良好な関係を築いていました。

しかし、実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇は幕府への態度を硬化させ、承久の乱を引き起こしました。
承久の乱では幕府方の勝利に終わり、以後、幕府の影響力は西国へ拡大しました。

承久の乱後、3代執権北条泰時、5代執権北条時頼の頃に、幕府の政治体制が整備されました。

モンゴル襲来

そんななか、鎌倉幕府は最大の危機を迎えます。モンゴル襲来(元寇)です。
鎌倉幕府は8代執権北条時宗のもと、二度にわたってモンゴル軍と戦い、撤退させました(1回目が1274年の文永の役、2度目が1281年の公安の駅)。
これにより、鎌倉幕府、とりわけ北条氏の影響力は一段と増します。

ところが、北条市以外の御家人の生活は困窮していました。
分割相続やモンゴル襲来への恩賞が不十分だったにも関わらず、軍事負担は続いたからです。

鎌倉幕府は御家人救済のため永仁の徳政令を出しますが、効果は不十分でした。
そのため、御家人の鎌倉幕府に対する不満は高まります。鎌倉幕府の基盤が崩れ出していたのです。

円覚寺
円覚寺の写真。北条時宗がモンゴル襲来の死者を弔うために建立しました。

鎌倉幕府の滅亡

この状況に目をつけたのが朝廷の後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は二度、倒幕計画を立てますが失敗します。
けれども、各地の武士が倒幕に向けて立ち上がるようになります。

このような状況に対し、鎌倉幕府は御家人の足利高氏と新田義貞を鎮圧に向かわせるも、彼らも鎌倉幕府を裏切ってしまいます。

こうして、1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。

平安時代

平安時代の始まり

平安神宮
平安神宮。平安遷都1100年を記念して作られました。

794年、桓武天皇は平安京に遷都します。
平城京の環境衛生の悪化や仏教勢力と距離を置くことなどが理由でした。

ここから、源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの400年近くを平安時代と呼びます。

桓武天皇の政治

桓武天皇は天皇主導の政治を目指し、平安京に遷都します。
また、東北地方にいた蝦夷と呼ばれる人々を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、東北地方へ派遣しました。

その後即位した嵯峨天皇は検非違使や蔵人頭という律令に規定されていなかった役職を新設し、法典の整備を行うなど、 天皇の権力を強化する仕組みを整えました。

藤原氏の政治

ところが9世紀後半以後、藤原氏が急速に勢力を伸ばしていきます。
藤原氏は娘を天皇の后にして、生まれた子供を次期天皇とすると、自らは天皇が幼少期には摂政、 天皇が成人したら関白となって政治に大きな発言力を持ちました。これを摂関政治と呼びます。

摂関政治は11世紀の藤原道長・藤原頼道の頃に最盛期を迎えました。

紫式部の銅像
紫式部の像。紫式部は藤原道長とも関係がありました。

武士の台頭

他方、地方では武士が台頭しつつありました。

特に、10世紀に起きた平将門の乱(関東で起きた反乱)と藤原純友の乱(瀬戸内海で起きた反乱)を武士が鎮圧したことで、 貴族が武士に警護を任せるなど武士の重要性が増しました。

保元・平治の乱。そして平氏政権へ

そんな武士が表舞台に登場した出来事が12世紀に起きた保元・平治の乱です。
天皇家や貴族の争いに端を発したこれらの出来事は、武士の力によって解決します。

特に2つの戦いに勝利した平清盛が平治の乱以後、急速に出世していきます。
平氏は高官高位を独占し、日宋貿易を行なったほか、娘を天皇の后にして生まれた子を次の天皇にしました。

こうして、平氏は「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほど栄華を極めました。

平家滅亡へ

しかし、次第に平氏に対する不満が高まります。

こうした中、1180年に以仁王(後白河法皇の子)が打倒平氏の命令を下すと、源氏・寺社勢力が 打倒兵士を掲げて挙兵します。

平氏はこうした動きを抑えることができず、平安京を離れ西国で再起を図ろうとします。
しかし、源義経・源範頼の軍勢に次第に追い詰められ、ついに1185年の壇の浦の戦いで滅亡しました。

奈良時代

奈良時代の始まり

興福寺。藤原氏の氏寺です。
興福寺の写真。藤原氏の氏寺です。

710年、元明天皇(当時の天皇)は平城京に遷都します。
ここから794年に桓武天皇が平安京に遷都するまでを奈良時代と呼びます。

律令に基づく政治

奈良時代の特徴の1つは「唐の制度を取り入れた」ことです。
日本は唐を参考に律令や貨幣を取り入れました。

ただし、律令に関して言うと、日本の実情に合わない部分も出てきます。
特に、「税の未納」と「土地不足」の問題に直面します。

そこで、三世一身の法(723年)や墾田永年私財法(743年)を出すなど、当時の国内情勢に応じて律令を運用していきました。

仏教を重視

もう一つの特徴が「仏教」です。
特に聖武天皇の時代は自然災害や疫病、貴族間の有力争いなどよくないことが続いていました。

そこで、聖武天皇は仏教の力で国を鎮めようとします。
そのために全国に国分寺・国分尼寺を建立させたほか、東大寺に大仏をつくりました。

東大寺。聖武天皇は東大寺に大仏をつくりました。
東大寺。聖武天皇は東大寺に大仏を造立しました。

そして平安時代へ

けれども、仏教を重視することは一方で政治に関与する僧侶を生み出しました。
さらには、当時の天皇がお気に入りの僧侶を天皇にしようと画策する事件も起こります(結局実現しませんでしたが)。

そのため、この後即位する桓武天皇は政治と仏教の距離を見直すことになるのです。

飛鳥時代

飛鳥時代の始まり

6世紀から7世紀にかけて、政治の中心地はもっぱら飛鳥地方にありました。
そのため、この時代は飛鳥時代と呼ばれています。この時代、国外情勢は絶えず変化し、国内では中央集権化が目指されていました。

推古天皇の政治

飛鳥寺の写真。飛鳥寺は蘇我馬子が建立したお寺です。
飛鳥寺の写真。飛鳥寺は蘇我馬子が建てたお寺です。

6世紀から7世紀初めにかけて、朝鮮半島では倭と関係の深い伽耶が滅亡し、中国大陸では隋が中国を統一していました。
倭は600年に遣隋使を派遣しているものの、不首尾に終わってしまいます。

そこで、推古天皇、蘇我馬子、厩戸王のもと冠位十二階や十七条憲法など国内の政治改革が行われました。

大化の改新

その後、7世紀半ばには中国大陸で隋にかわり唐が成立します。
朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が生き残りをかけ争っていました。

その一方で、国内では蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の主導権を握っていました。
しかし、中央集権化を目指す中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼします。
その上で唐にならった政治改革を推進していきました。

白村江の戦い

ところが、7世紀後半、唐と新羅が手を結び、倭と親交のあった百済を滅ぼします。
そこで倭は百済復興を目指しますが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北してしまいました。
そのため中大兄皇子は国防に力を入れ、都を近江(現在の滋賀県)に移しました。

天武天皇〜持統天皇の政治

その後、中大兄皇子は天智天皇として即位します。
天智天皇は初の戸籍を作成し唐にならった中央集権化を目指しました。

天智天皇の死後、次期天皇の座をめぐり壬申の乱が起こります。
この戦いに勝利した大海人皇子(天武天皇)のもとで、天皇を頂点とする政治体制づくりが進められました。

その後、持統天皇は夫天武天皇の政策を引き継ぐとともに、本格的な都である藤原京に遷都しました。

こうして日本は飛鳥時代を通じ、天皇を中心とする中央集権国家を完成させました。

伊勢神宮の鳥居。伊勢神宮は天武天皇が整備しました。
伊勢神宮の鳥居。天武天皇は伊勢神宮を整備しました。

古墳時代

古墳時代の始まり

埴輪の画像。馬の他にも円筒のものや武人を模ったものなどがありました。
埴輪の画像。馬の他にも円筒のものや武人を模ったものなどもありました。

3世紀ごろから各地で有力者の墓である古墳が作られるようになります。
3世紀から7世紀ごろまでを古墳時代と呼びます。

特に近畿地方では古くて巨大な前方後円墳(鍵穴のような形をした古墳)が数多く出土しています。
そのため、近畿地方の地方勢力はヤマト政権と呼ばれています。

ただし、近畿地方でも、岡山県や京都府・群馬県あたりにも古墳が集中しており、それらの地域に有力な地方勢力があったと考えられています。

ヤマト政権の転機

ヤマト政権は4世紀末〜5世紀の初めにかけて朝鮮半島の高句麗と戦い、敗北したことが好太王碑に記されています。

その後、近畿地方の古墳が巨大化していることから、ヤマト政権は国内の勢力拡大を図ったとみられています。
ただし、この段階では他の地域の古墳も巨大化していました。

前方後円墳の写真です。
前方後円墳の画像

ヤマト政権の拡大

ところが、5世紀後半以降、近畿地方以外では巨大な前方後円墳が見られなくなります。
また、稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣や 江田船山古墳(熊本県)の鉄刀のように、近畿地方から遠く離れた場所から 大和政権のリーダー(大王)にまつわるものが見つかるようになります。

以上から、ヤマト政権は関東から九州までを支配下に置いたと考えられます。

そして飛鳥時代へ

ヤマト政権のリーダーである大王は蘇我氏などの有力豪族によって擁立されていました。
けれども、次第に大王への権力集中が目指されるようになるのです。

旧石器〜弥生時代

旧石器時代

マンモスのイメージ画像
マンモスのイメージ画像

今から46億年前、地球が誕生します。その後、今から700万年前に人類が登場しました。
猿人・原人・旧人が登場しては滅亡し、今から30〜25万年前にアフリカで登場した新人が世界中へ散らばりました。

この長い長い年月の中で、260万年前から1万年前までを旧石器時代と呼びます。
旧石器時代は①打製石器が使われたこと、②狩猟や採集を行なっていたことが特徴です。

旧石器時代は別名「氷河時代」と呼ばれ、寒冷時代でした。そのため日本列島は大陸と地続きでした。
人類はマンモスやナウマンゾウを追いかけて日本列島となる場所にやってきました。

縄文時代

今から1万年前に温暖化が始まります。この結果、海水面が上昇し日本列島が誕生しました。

温暖化は自然環境の変化をもたらします。マンモスにかわって猪や鹿が繁殖し、多様な植物が植生するようになります。人類は自然環境の変化に応じて弓矢や土器といった道具を使用し始めました。

この1万年前から5000年前の時代を縄文時代と呼びます。

この時代は①縄文土器や磨製石器などの道具が使われたこと、②食料が安定して確保できるようになり、定住が始まったことが特徴です。
定住するようになったことで集落などの共同体も発生するようになりました。

弥生時代

その後、5000年前ごろから、大陸では稲作が始まります。
大陸から日本列島へ渡った人々によって稲作が日本列島に伝わりました。

稲作が伝来してから3世紀ごろまでの時代を弥生時代と呼びます。
この時代は①稲作の開始、②弥生土器の使用、③金属器(青銅器と鉄器)の使用、が特徴です。

特に稲作での作業や稲作で得られる収穫量によって身分の差や貧富の差が生じるようになり、 水や食料をめぐって争いが起こるようになりました。

戦争の中で各地にクニと呼ばれる共同体が生まれ、やがて地方勢力となりました。

吉野ヶ里遺跡。弥生時代の代表的な遺跡です。
吉野ヶ里遺跡。弥生時代の代表的な遺跡です。