旧石器〜弥生時代

旧石器時代

マンモスのイメージ画像
マンモスのイメージ画像

今から46億年前、地球が誕生します。その後、今から700万年前に人類が登場しました。
猿人・原人・旧人が登場しては滅亡し、今から30〜25万年前にアフリカで登場した新人が世界中へ散らばりました。

この長い長い年月の中で、260万年前から1万年前までを旧石器時代と呼びます。
旧石器時代は①打製石器が使われたこと、②狩猟や採集を行なっていたことが特徴です。

旧石器時代は別名「氷河時代」と呼ばれ、寒冷時代でした。そのため日本列島は大陸と地続きでした。
人類はマンモスやナウマンゾウを追いかけて日本列島となる場所にやってきました。

縄文時代

今から1万年前に温暖化が始まります。この結果、海水面が上昇し日本列島が誕生しました。

温暖化は自然環境の変化をもたらします。マンモスにかわって猪や鹿が繁殖し、多様な植物が植生するようになります。人類は自然環境の変化に応じて弓矢や土器といった道具を使用し始めました。

この1万年前から5000年前の時代を縄文時代と呼びます。

この時代は①縄文土器や磨製石器などの道具が使われたこと、②食料が安定して確保できるようになり、定住が始まったことが特徴です。
定住するようになったことで集落などの共同体も発生するようになりました。

弥生時代

その後、5000年前ごろから、大陸では稲作が始まります。
大陸から日本列島へ渡った人々によって稲作が日本列島に伝わりました。

稲作が伝来してから3世紀ごろまでの時代を弥生時代と呼びます。
この時代は①稲作の開始、②弥生土器の使用、③金属器(青銅器と鉄器)の使用、が特徴です。

特に稲作での作業や稲作で得られる収穫量によって身分の差や貧富の差が生じるようになり、 水や食料をめぐって争いが起こるようになりました。

戦争の中で各地にクニと呼ばれる共同体が生まれ、やがて地方勢力となりました。

吉野ヶ里遺跡。弥生時代の代表的な遺跡です。
吉野ヶ里遺跡。弥生時代の代表的な遺跡です。

古墳時代

古墳時代の始まり

埴輪の画像。馬の他にも円筒のものや武人を模ったものなどがありました。
埴輪の画像。馬の他にも円筒のものや武人を模ったものなどもありました。

3世紀ごろから各地で有力者の墓である古墳が作られるようになります。
3世紀から7世紀ごろまでを古墳時代と呼びます。

特に近畿地方では古くて巨大な前方後円墳(鍵穴のような形をした古墳)が数多く出土しています。
そのため、近畿地方の地方勢力はヤマト政権と呼ばれています。

ただし、近畿地方でも、岡山県や京都府・群馬県あたりにも古墳が集中しており、それらの地域に有力な地方勢力があったと考えられています。

ヤマト政権の転機

ヤマト政権は4世紀末〜5世紀の初めにかけて朝鮮半島の高句麗と戦い、敗北したことが好太王碑に記されています。

その後、近畿地方の古墳が巨大化していることから、ヤマト政権は国内の勢力拡大を図ったとみられています。
ただし、この段階では他の地域の古墳も巨大化していました。

前方後円墳の写真です。
前方後円墳の画像

ヤマト政権の拡大

ところが、5世紀後半以降、近畿地方以外では巨大な前方後円墳が見られなくなります。
また、稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣や 江田船山古墳(熊本県)の鉄刀のように、近畿地方から遠く離れた場所から 大和政権のリーダー(大王)にまつわるものが見つかるようになります。

以上から、ヤマト政権は関東から九州までを支配下に置いたと考えられます。

そして飛鳥時代へ

ヤマト政権のリーダーである大王は蘇我氏などの有力豪族によって擁立されていました。
けれども、次第に大王への権力集中が目指されるようになるのです。

飛鳥時代

飛鳥時代の始まり

6世紀から7世紀にかけて、政治の中心地はもっぱら飛鳥地方にありました。
そのため、この時代は飛鳥時代と呼ばれています。この時代、国外情勢は絶えず変化し、国内では中央集権化が目指されていました。

推古天皇の政治

飛鳥寺の写真。飛鳥寺は蘇我馬子が建立したお寺です。
飛鳥寺の写真。飛鳥寺は蘇我馬子が建てたお寺です。

6世紀から7世紀初めにかけて、朝鮮半島では倭と関係の深い伽耶が滅亡し、中国大陸では隋が中国を統一していました。
倭は600年に遣隋使を派遣しているものの、不首尾に終わってしまいます。

そこで、推古天皇、蘇我馬子、厩戸王のもと冠位十二階や十七条憲法など国内の政治改革が行われました。

大化の改新

その後、7世紀半ばには中国大陸で隋にかわり唐が成立します。
朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が生き残りをかけ争っていました。

その一方で、国内では蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の主導権を握っていました。
しかし、中央集権化を目指す中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼします。
その上で唐にならった政治改革を推進していきました。

白村江の戦い

ところが、7世紀後半、唐と新羅が手を結び、倭と親交のあった百済を滅ぼします。
そこで倭は百済復興を目指しますが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北してしまいました。
そのため中大兄皇子は国防に力を入れ、都を近江(現在の滋賀県)に移しました。

天武天皇〜持統天皇の政治

その後、中大兄皇子は天智天皇として即位します。
天智天皇は初の戸籍を作成し唐にならった中央集権化を目指しました。

天智天皇の死後、次期天皇の座をめぐり壬申の乱が起こります。
この戦いに勝利した大海人皇子(天武天皇)のもとで、天皇を頂点とする政治体制づくりが進められました。

その後、持統天皇は夫天武天皇の政策を引き継ぐとともに、本格的な都である藤原京に遷都しました。

こうして日本は飛鳥時代を通じ、天皇を中心とする中央集権国家を完成させました。

伊勢神宮の鳥居。伊勢神宮は天武天皇が整備しました。
伊勢神宮の鳥居。天武天皇は伊勢神宮を整備しました。

奈良時代

奈良時代の始まり

興福寺。藤原氏の氏寺です。
興福寺の写真。藤原氏の氏寺です。

710年、元明天皇(当時の天皇)は平城京に遷都します。
ここから794年に桓武天皇が平安京に遷都するまでを奈良時代と呼びます。

律令に基づく政治

奈良時代の特徴の1つは「唐の制度を取り入れた」ことです。
日本は唐を参考に律令や貨幣を取り入れました。

ただし、律令に関して言うと、日本の実情に合わない部分も出てきます。
特に、「税の未納」と「土地不足」の問題に直面します。

そこで、三世一身の法(723年)や墾田永年私財法(743年)を出すなど、当時の国内情勢に応じて律令を運用していきました。

仏教を重視

もう一つの特徴が「仏教」です。
特に聖武天皇の時代は自然災害や疫病、貴族間の有力争いなどよくないことが続いていました。

そこで、聖武天皇は仏教の力で国を鎮めようとします。
そのために全国に国分寺・国分尼寺を建立させたほか、東大寺に大仏をつくりました。

東大寺。聖武天皇は東大寺に大仏をつくりました。
東大寺。聖武天皇は東大寺に大仏を造立しました。

そして平安時代へ

けれども、仏教を重視することは一方で政治に関与する僧侶を生み出しました。
さらには、当時の天皇がお気に入りの僧侶を天皇にしようと画策する事件も起こります(結局実現しませんでしたが)。

そのため、この後即位する桓武天皇は政治と仏教の距離を見直すことになるのです。

平安時代

平安時代の始まり

平安神宮
平安神宮。平安遷都1100年を記念して作られました。

794年、桓武天皇は平安京に遷都します。
平城京の環境衛生の悪化や仏教勢力と距離を置くことなどが理由でした。

ここから、源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの400年近くを平安時代と呼びます。

桓武天皇の政治

桓武天皇は天皇主導の政治を目指し、平安京に遷都します。
また、東北地方にいた蝦夷と呼ばれる人々を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、東北地方へ派遣しました。

その後即位した嵯峨天皇は検非違使や蔵人頭という律令に規定されていなかった役職を新設し、法典の整備を行うなど、 天皇の権力を強化する仕組みを整えました。

藤原氏の政治

ところが9世紀後半以後、藤原氏が急速に勢力を伸ばしていきます。
藤原氏は娘を天皇の后にして、生まれた子供を次期天皇とすると、自らは天皇が幼少期には摂政、 天皇が成人したら関白となって政治に大きな発言力を持ちました。これを摂関政治と呼びます。

摂関政治は11世紀の藤原道長・藤原頼道の頃に最盛期を迎えました。

紫式部の銅像
紫式部の像。紫式部は藤原道長とも関係がありました。

武士の台頭

他方、地方では武士が台頭しつつありました。

特に、10世紀に起きた平将門の乱(関東で起きた反乱)と藤原純友の乱(瀬戸内海で起きた反乱)を武士が鎮圧したことで、 貴族が武士に警護を任せるなど武士の重要性が増しました。

保元・平治の乱。そして平氏政権へ

そんな武士が表舞台に登場した出来事が12世紀に起きた保元・平治の乱です。
天皇家や貴族の争いに端を発したこれらの出来事は、武士の力によって解決します。

特に2つの戦いに勝利した平清盛が平治の乱以後、急速に出世していきます。
平氏は高官高位を独占し、日宋貿易を行なったほか、娘を天皇の后にして生まれた子を次の天皇にしました。

こうして、平氏は「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほど栄華を極めました。

平家滅亡へ

しかし、次第に平氏に対する不満が高まります。

こうした中、1180年に以仁王(後白河法皇の子)が打倒平氏の命令を下すと、源氏・寺社勢力が 打倒兵士を掲げて挙兵します。

平氏はこうした動きを抑えることができず、平安京を離れ西国で再起を図ろうとします。
しかし、源義経・源範頼の軍勢に次第に追い詰められ、ついに1185年の壇の浦の戦いで滅亡しました。

鎌倉時代

鎌倉時代の始まり

源頼朝の像
源頼朝の像。最近では束帯姿の絵は別人説が唱えられています。

源平合戦の最中、源頼朝は挙兵します。頼朝は鎌倉を拠点に東国で勢力を伸ばしました。

その後、平氏が滅亡すると対立するようになった弟の義経追討を名目に守護・地頭を設置しました。

こうして平氏、義経、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は1192年、征夷大将軍に任命されました。
ここから、1333年の幕府滅亡までを鎌倉時代と呼びます。

北条氏の台頭と承久の乱

頼朝の死後、頼朝の息子(頼家・実朝)が将軍となります。
しかし、実権を握っていたのは北条氏でした。北条氏は執権として鎌倉幕府内で勢力を伸ばしていきます。

この状況を面白く思っていなかったのが朝廷の後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は当初、3代将軍実朝と良好な関係を築いていました。

しかし、実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇は幕府への態度を硬化させ、承久の乱を引き起こしました。
承久の乱では幕府方の勝利に終わり、以後、幕府の影響力は西国へ拡大しました。

承久の乱後、3代執権北条泰時、5代執権北条時頼の頃に、幕府の政治体制が整備されました。

モンゴル襲来

そんななか、鎌倉幕府は最大の危機を迎えます。モンゴル襲来(元寇)です。
鎌倉幕府は8代執権北条時宗のもと、二度にわたってモンゴル軍と戦い、撤退させました(1回目が1274年の文永の役、2度目が1281年の公安の駅)。
これにより、鎌倉幕府、とりわけ北条氏の影響力は一段と増します。

ところが、北条市以外の御家人の生活は困窮していました。
分割相続やモンゴル襲来への恩賞が不十分だったにも関わらず、軍事負担は続いたからです。

鎌倉幕府は御家人救済のため永仁の徳政令を出しますが、効果は不十分でした。
そのため、御家人の鎌倉幕府に対する不満は高まります。鎌倉幕府の基盤が崩れ出していたのです。

円覚寺
円覚寺の写真。北条時宗がモンゴル襲来の死者を弔うために建立しました。

鎌倉幕府の滅亡

この状況に目をつけたのが朝廷の後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は二度、倒幕計画を立てますが失敗します。
けれども、各地の武士が倒幕に向けて立ち上がるようになります。

このような状況に対し、鎌倉幕府は御家人の足利高氏と新田義貞を鎮圧に向かわせるも、彼らも鎌倉幕府を裏切ってしまいます。

こうして、1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。

南北朝時代

建武の新政

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を実施します。
しかし、天皇中心の政治を目指す後醍醐天皇のやり方は世の中に混乱と(特に武士の)不満をもたらしました。

南北朝の動乱の始まり

この状況で人々が期待したのが足利尊氏でした。
尊氏は新たに別の天皇を擁立し、京都に朝廷をたてます(=北朝)。

一方で後醍醐天皇も吉野に逃れ、吉野を拠点とする朝廷をたてました(=南朝)。

北朝と南朝、京都と吉野に成立した2つの朝廷はともに正統性を主張し対立しました。
この北朝と南朝が争った時代を南北朝時代と呼びます。

動乱の長期化

天龍寺
天龍寺。足利尊氏・直義兄弟が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立しました。

南朝では、新田義貞や北畠顕家など有力な武将を次々と失い、さらには後醍醐天皇までもが亡くなりました。

ところが、北朝では尊氏と弟の直義による内部対立が起きてしまいます。
加えて、全国各地も南朝・尊氏派・直義派に分かれて戦ったことで、南北朝の動乱は長期化しました。

動乱の終結

こうして60年後、足利義満の時代になると、南朝は勢いを失っていました。
そこで、足利義満が仲介し、南北朝の合体が行われました。

こうして分裂していた朝廷は1つになり、南北朝の動乱は終結しました。

室町時代

室町時代の始まり

1338年、足利尊氏は北朝の天皇によって征夷大将軍に任命されます。
ここから、15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放されるまでを室町時代と呼びます。

初期の室町幕府

室町幕府が成立した頃は、南北朝の動乱真っ只中の時期でした。

そこで、室町幕府は守護を味方につけるため、守護にさまざまな権限を与えます。

その結果、守護大名は室町幕府にとって無視できない存在となりました。

3代将軍足利義満

鹿苑寺金閣
鹿苑寺金閣。足利義満が建てました。

そんな室町幕府を安定させたのが3代将軍の足利義満です。
義満は武力や朝廷の権威によって有力な守護大名を抑えるとともに、南北朝の合体を行って南北朝の動乱に終止符を打ちました。

さらに、日明貿易を行い、財政の安定を図ります。

こうして室町幕府は義満の時代に安定しました。

室町幕府の停滞

けれども、4代将軍足利義持以後、室町幕府の影響力は次第に低下していきます。

例えば、6代将軍足利義教は守護大名の赤松氏に暗殺されました。

また、8代将軍足利義政の頃には応仁の乱が起こりました。
この出来事は京都を焼け野原にしたのみならず、室町幕府の弱体化に拍車をかけました。

慈照寺銀閣
慈照寺銀閣。足利義政が建てました。

室町幕府の滅亡

その後、管領の細川氏の間で内紛が起こると、当事者たちが足利氏をそれぞれ将軍に擁立したため足利将軍家は分裂してしまいます。 中には暗殺される将軍もいました。

そうした中、足利義昭は織田信長の支援を受け、室町幕府第15代将軍となります。
ところが、畿内で勢力を拡大する信長と次第に利害が衝突するようになります。
その結果、足利義昭は信長によって京都から追放され、室町幕府は滅亡しました。

戦国・安土桃山時代

戦国時代の始まり

松本城
松本城。日本最古の国宝の城と言われています。

室町幕府の影響力が低下すると、各地で「実力によって支配領域を守ろうとする者」が現れます。これが戦国大名です。

戦国大名が各地でしのぎを削った時代を戦国時代と呼びます。

戦国大名の領国経営

戦国大名は支配領域を維持するために、あらゆることを行いました。

例えば、下剋上や「暴力による問題解決」を防ぐため、分国法を制定します。
また、関所を廃止し、自由な商売を認める楽市令を出すことで商人を呼び込み、 城下町を作って家臣や商人を集めて経済の活性化を図りました。

小田原城
小田原城。北条氏の居城でした。堅牢な城で、武田信玄や上杉謙信をも退けたこともありました。

大航海時代とヨーロッパの出会い

ちょうどその頃、ヨーロッパでは大航海時代と迎えていました。
特に、スペインとポルトガルはいち早く海外に進出します。日本はこれらの国々と南蛮貿易を行いました。

ヨーロッパ人がもたらしたもので特に有名なのが鉄砲とキリスト教です。

鉄砲は種子島に伝来すると、国産化され、戦術や築城技術に変化をもたらしました。
また、キリスト教はフランシスコ=ザビエルによって日本に伝わると、キリスト教を信仰する者も現れるようになりました。 中には南蛮貿易を行うためにキリスト教に入信する戦国大名もいました。

ヨーロッパとの出会いは、国内に大きな影響を与えました。

安土桃山時代の始まり

戦国大名が各地で勢力争いを繰り広げる中、「天下統一」を目指す人々が現れます。それが織田信長と豊臣秀吉です。
この2人の時代を安土桃山時代と呼びます。

織田信長の天下統一

清洲城
清洲城。織田信長が一時期支配していました。信長死後、次の家督を決める清洲会議の舞台になりました。

織田信長は元は尾張の戦国大名でした。桶狭間の戦いで名をあげると、足利義昭を上洛させ室町幕府15代将軍に擁立します。

その後、敵対する戦国大名(浅井氏や朝倉氏や武田氏)や仏教勢力(一向一揆や延暦寺)と戦いながら勢力範囲を広げていきます。

こうして信長は1582年に武田氏を滅ぼすと、近畿・北陸・東海を中心に広範囲を支配するに至りました。

ところが、信長は毛利攻めに向かう途中、本能寺の変で明智光秀の裏切りにあい自害しました。

豊臣秀吉の天下統一

信長の死後、次の天下人に名乗りをあげたのが豊臣秀吉です。

彼は山崎の戦いで明智光秀を倒すと、賤ヶ岳の戦いで信長家臣の柴田勝家を破り、「信長の後継者」として台頭します。

そんな秀吉は小牧・長久手の戦い以後、朝廷の権威を利用して天下統一を目指します。
具体的には上杉氏や徳川氏など有力な戦国大名に冠位を与えて序列化を図るとともに、島津氏や北条氏など停戦命令を無視した大名を武力で服属させました。

こうして1590年、豊臣秀吉によって天下統一が実現しました。

大坂城
大坂城。豊臣秀吉は石山本願寺跡地に大坂城を築きました。

秀吉の晩年

国内を統一した秀吉は、東アジア世界の中心となる野望を持ち、明侵攻を目論みます。

ところが、朝鮮が日本の要請を拒否したため、秀吉は二度にわたって朝鮮出兵を敢行しました(1592年文禄の役、1597年慶長の役)。
しかし、最終的に失敗に終わりました。

この結果、豊臣政権は弱体化し、次の天下人である徳川家康が台頭していくことになります。

江戸時代(前編)

江戸時代の始まり

関ヶ原の戦いで石田三成を破った徳川家康は1603年、朝廷から征夷大将軍任命され、江戸幕府を開きます。
ここから大政奉還までのおよそ260年近くを江戸時代と呼びます。

江戸幕府の安定

大名行列
大名行列の絵。箱根には関所が設置されていました。

江戸幕府を開いた家康は将軍職を秀忠に譲るとともに、大名に対して江戸への参勤や普請工事への協力を命じます。 「世は徳川氏の時代」であることを人々に知らしめます。
そして、大坂の陣によって豊臣氏を滅ぼしました。

大坂の陣以後、江戸幕府は支配体制を整備していきます。

幕府は大名に対し、領地を与える代わりに、領民の支配を委ねます。 ただし、一方で武家諸法度によって大名の行動を統制していきました。

朝廷も同様です。幕府は官位の授与や改元などを朝廷に任せますが、 禁中並公家諸法度で天皇や公家の行動を統制していきました。

その後、3代将軍徳川家光は参勤交代を制度化するとともに、キリスト教の防止と貿易による利益を独占するため、 外交関係を持つ相手を限定(清・オランダ・朝鮮・琉球)しました。

こうして江戸幕府の基本方針が固まりました。

江戸幕府の転換

その後、徳川家綱から綱吉の時代にかけて、江戸幕府の政治方針が転換します。

彼らは「平和な時代にふさわしい江戸幕府」のあり方を追求しました(実は綱吉が行った生類憐れみの令もその一環でした)。

湯島聖堂
湯島聖堂。徳川綱吉が創建しました。

改革の時代

ところが、17世紀末ごろから、江戸幕府は財政難に直面するようになります。
明暦の大火(江戸時代に起きた大火事)への復興や綱吉の政策によって出費が嵩んだことや、 人々の生活水準が向上し贅沢をするようになったことなどが原因でした。

そのため、財政難に対処しようとする動きが起こります。
徳川吉宗は倹約と農業の力で、田沼意次は商業の力で対処しようとします。
また、松平定信は祖父吉宗に倣って倹約を奨励し、水野忠邦は娯楽(寄席や歌舞伎など)をも制限するほど徹底的な倹約を行いました。

しかし、いずれも失敗に終わりました

幕府の弱体化と外国船の接近

19世紀ごろから、江戸幕府の影響力は低下していました。一気や打ち壊しが頻発し、幕府の政策が撤回に追い込まれることが増えてきました。

この頃、欧米は産業革命などを経て急速に国力をつけていました。欧米諸国はやがて日本を訪れるようになります。