建武の新政
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を実施します。
しかし、天皇中心の政治を目指す後醍醐天皇のやり方は世の中に混乱と(特に武士の)不満をもたらしました。
南北朝の動乱の始まり
この状況で人々が期待したのが足利尊氏でした。
尊氏は新たに別の天皇を擁立し、京都に朝廷をたてます(=北朝)。
一方で後醍醐天皇も吉野に逃れ、吉野を拠点とする朝廷をたてました(=南朝)。
北朝と南朝、京都と吉野に成立した2つの朝廷はともに正統性を主張し対立しました。
この北朝と南朝が争った時代を南北朝時代と呼びます。
動乱の長期化
南朝では、新田義貞や北畠顕家など有力な武将を次々と失い、さらには後醍醐天皇までもが亡くなりました。
ところが、北朝では尊氏と弟の直義による内部対立が起きてしまいます。
加えて、全国各地も南朝・尊氏派・直義派に分かれて戦ったことで、南北朝の動乱は長期化しました。
動乱の終結
こうして60年後、足利義満の時代になると、南朝は勢いを失っていました。
そこで、足利義満が仲介し、南北朝の合体が行われました。
こうして分裂していた朝廷は1つになり、南北朝の動乱は終結しました。