江戸時代(前編)

江戸時代の始まり

関ヶ原の戦いで石田三成を破った徳川家康は1603年、朝廷から征夷大将軍任命され、江戸幕府を開きます。
ここから大政奉還までのおよそ260年近くを江戸時代と呼びます。

江戸幕府の安定

大名行列の絵。箱根には関所が設置されていました。

江戸幕府を開いた家康は将軍職を秀忠に譲るとともに、大名に対して江戸への参勤や普請工事への協力を命じます。 「世は徳川氏の時代」であることを人々に知らしめます。
そして、大坂の陣によって豊臣氏を滅ぼしました。

大坂の陣以後、江戸幕府は支配体制を整備していきます。

幕府は大名に対し、領地を与える代わりに、領民の支配を委ねます。 ただし、一方で武家諸法度によって大名の行動を統制していきました。

朝廷も同様です。幕府は官位の授与や改元などを朝廷に任せますが、 禁中並公家諸法度で天皇や公家の行動を統制していきました。

その後、3代将軍徳川家光は参勤交代を制度化するとともに、キリスト教の防止と貿易による利益を独占するため、 外交関係を持つ相手を限定(清・オランダ・朝鮮・琉球)しました。

こうして江戸幕府の基本方針が固まりました。

江戸幕府の転換

湯島聖堂。徳川綱吉が創建しました。

その後、徳川家綱から綱吉の時代にかけて、江戸幕府の政治方針が転換します。

彼らは「平和な時代にふさわしい江戸幕府」のあり方を追求しました(実は綱吉が行った生類憐れみの令もその一環でした)。

改革の時代

ところが、17世紀末ごろから、江戸幕府は財政難に直面するようになります。
明暦の大火(江戸時代に起きた大火事)への復興や綱吉の政策によって出費が嵩んだことや、 人々の生活水準が向上し贅沢をするようになったことなどが原因でした。

そのため、財政難に対処しようとする動きが起こります。
徳川吉宗は倹約と農業の力で、田沼意次は商業の力で対処しようとします。
また、松平定信は祖父吉宗に倣って倹約を奨励し、水野忠邦は娯楽(寄席や歌舞伎など)をも制限するほど徹底的な倹約を行いました。

しかし、いずれも失敗に終わりました。

幕府の弱体化と外国の接近

19世紀ごろから、江戸幕府の影響力は低下していました。一気や打ち壊しが頻発し、幕府の政策が撤回に追い込まれることが増えてきました。

この頃、欧米は産業革命などを経て急速に国力をつけていました。欧米諸国はやがて日本を訪れるようになります。