ペリー来航
1853年、ペリーが浦賀に来航しました。これに対し江戸幕府は審議を重ね、翌年、日米和親条約を結びました。
こうして日本は「開国」します。
大老 井伊直弼
日米和親条約締結後、アメリカは日本との通商を求めるようになります。しかし、朝廷は通商に反対していました。 折しも、江戸幕府では13代将軍徳川家定の後継者をめぐる対立が起きていました。
大老の井伊直弼はこの二つの問題に対処します。井伊は朝廷の許可を得ないまま、1858年に日米通商修好条約を結びます。 また、14代将軍を徳川慶福(のちの家茂)に決定しました。
井伊の対応に対し批判的なものもいましたが、井伊は安政の大獄で彼らを弾圧しました。
しかし、1860年、桜田門外の変で井伊は暗殺されました。
薩長の台頭
桜田門外の変後、江戸幕府は朝廷と協調関係を築いて幕府の建て直しを図ろうとします。
他方でこの頃から表舞台に登場したのが薩摩藩と長州藩でした。
薩摩藩は当初、幕府と協調的な姿勢をとっていました。しかし、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)と対立するようになり、西郷隆盛や大久保利通らが中心となって倒幕を考えるようになります。
一方、長州藩は当初、尊王攘夷の姿勢をとっていましたが。しかし、四国艦隊下関砲撃事件(長州藩がアメリカ・イギリス・フランス・オランダと戦った出来事)を機に考えを改め、 開国・倒幕へと転じました(ちなみに薩摩藩にも一部攘夷を考える者もいましたが、薩英戦争を機に考えを改めています)。
こうして、薩摩藩と長州藩は手を結び、幕府に対抗するようになります。
大政奉還
この頃、幕府は長州藩を討伐しようとしますが、失敗に終わります。これを機に庶民の心も幕府から離れていきました。
こうした中、徳川慶喜が江戸幕府15代将軍となります。慶喜は大政奉還を実施し、政権を朝廷に返還しました。
これにより、慶喜は薩長の「討幕」という名目をなくすとともに、影響力を保ったまま新政府に参画することを目論んでいました。
ところが、西郷隆盛や討幕を目指す公家の岩倉具視によって慶喜は新政府から排除されてしまいます。これに対し、旧幕府側がいきり立ちます。
戊辰戦争
こうして、薩長率いる新政府軍と旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで衝突しました。戊辰戦争の始まりです。
戦局は新政府が優勢になり、4月には江戸城を無血開城させました。
しかし各地で旧幕府軍が抵抗を続けていました。新政府軍はこうした勢力を潰していき、ついに五稜郭の戦いで最後まで抵抗を続けていた旧幕府軍を降伏させました。
こうして戊辰戦争は終わり、時代は明治へと変わっていきました。