飛鳥時代の始まり
6世紀から7世紀にかけて、政治の中心地はもっぱら飛鳥地方にありました。
そのため、この時代は飛鳥時代と呼ばれています。この時代、国外情勢は絶えず変化し、国内では中央集権化が目指されていました。
推古天皇の政治
6世紀から7世紀初めにかけて、朝鮮半島では倭と関係の深い伽耶が滅亡し、中国大陸では隋が中国を統一していました。
倭は600年に遣隋使を派遣しているものの、不首尾に終わってしまいます。
そこで、推古天皇、蘇我馬子、厩戸王のもと冠位十二階や十七条憲法など国内の政治改革が行われました。
大化の改新
その後、7世紀半ばには中国大陸で隋にかわり唐が成立します。
朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が生き残りをかけ争っていました。
その一方で、国内では蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の主導権を握っていました。
しかし、中央集権化を目指す中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼします。
その上で唐にならった政治改革を推進していきました。
白村江の戦い
ところが、7世紀後半、唐と新羅が手を結び、倭と親交のあった百済を滅ぼします。
そこで倭は百済復興を目指しますが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北してしまいました。
そのため中大兄皇子は国防に力を入れ、都を近江(現在の滋賀県)に移しました。
天武天皇〜持統天皇の政治
その後、中大兄皇子は天智天皇として即位します。
天智天皇は初の戸籍を作成し唐にならった中央集権化を目指しました。
天智天皇の死後、次期天皇の座をめぐり壬申の乱が起こります。
この戦いに勝利した大海人皇子(天武天皇)のもとで、天皇を頂点とする政治体制づくりが進められました。
その後、持統天皇は夫天武天皇の政策を引き継ぐとともに、本格的な都である藤原京に遷都しました。
こうして日本は飛鳥時代を通じ、天皇を中心とする中央集権国家を完成させました。